番外編
Crocusスピンオフ——過去編——
Crocusスピンオフ——未来編——
Crocusスピンオフ——if編——
二〇一五年、冬。
「ただいま~」
茂山汐は久しぶりに実家へ帰省していた。普段は栃木県で仕事をしているが、年末の休暇を利用して神奈川県の家へ戻ってきたのだ。
玄関で靴を脱ぎ、少し冷えた手を擦りながらリビングへ足を運ぶ。そこには母親がいて、何やら家事の合間にテレビを見ていた。
「樹は?」
汐はリビングに弟の姿が見当たらないことに気づき、ふと母親に問いかける。
「樹なら自分の部屋で友達とゲームしてるわよ」
そう返された瞬間、汐は「なんだ、楽しそうじゃないか」と興味を引かれ、すぐに弟の部屋へ向かうことにした。
ちなみに、汐と弟の樹は子どもの頃から部屋を共有しており、汐が樹の部屋に行くことはごく自然な光景だった。「樹~」
軽くノックして扉を開けた汐だったが、そこにいたのは樹一人だけ。友達の姿はどこにもない。
「友達とゲームしてるって聞いたけど?」
首をかしげてそう言うと、樹は「あ、ちょっと待って」と言いながらヘッドセットを触り、「ミュートするわ」とぽつりと呟いた。
「通話でやってるだけだよ。おかえり、兄貴」
ヘッドセットを外して一息ついた樹がようやく汐に挨拶を返した。
「ただいま。ここにいてもいいよね?」
汐は弟の反応を見て軽く尋ねたが、なぜか樹は少し気まずそうな顔をして黙り込む。
「ん~……」
普通なら「いいよ」と即答するはずなのに、この妙な間。汐は訝しげに樹を見つめる。
「なに……?」
樹が何か隠していると察した汐が問い詰めるように言うと、樹はしぶしぶ観念した様子で口を開いた。
「……お父さんとお母さんに内緒にしてくれる?」
「ん?急に?いいけど……何、それ」
汐は突然の真剣な問いに少し戸惑いつつも頷く。すると樹はそっと手招きして汐を呼び寄せ、声を潜めた。
「俺……彼女いんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、汐は一瞬固まった。
「えっ……!」
あまりに意外な告白に、思わず間抜けな声を漏らしてしまう。樹はその反応に小さく笑ったが、耳が赤く染まっているのがはっきりと見えた。
「マジで言わないでよ。彼女との約束だし、今俺高二だろ。受験前でこんなことバレたら、絶対怒られるんだからさ」
樹はそう言いながら、ちらりと汐を見上げた。その姿はどこか頼りなくもあり、弟が少しずつ成長しているのを感じさせる。
「わかったよ、秘密は守るって。でも勉強も彼女も、どっちもちゃんと頑張れよ」
汐は軽い口調でそう言うと、部屋を出る準備をする。
扉を閉める前にもう一度振り返ると、樹はヘッドセットをかけ直し、少し照れたような顔でゲームに戻っていった。
廊下を歩きながら汐はひとり笑みを浮かべる。普段そっけない態度の弟が、こんな風に大事な秘密を打ち明けてくれたことが、何とも微笑ましかった。
「でも……私はどこにいればいいんだ?」
部屋を追い出された汐は仕方なくリビングへ戻り、ソファに腰を下ろすとテレビのリモコンを手に取った。
「あ〜……樹に彼女ができちゃったか……」
リビングに戻った茂山汐は、ぽつりと独り言を漏らした。弟の成長を嬉しく思う気持ちと、どこか焦燥感にも似た感情が胸を締め付ける。
「まあ、私も一度彼女がいたことはあるけど……結局別れちゃったしなぁ」
過去の記憶が蘇る。少し懐かしいような、それでいてほろ苦い感情が込み上げる。ふと、頭をよぎるのは自分の同級生たちのことだ。
「あの頃の仲間たち、みんな今頃どうしてるんだろう?」
社会人になった今では連絡を取ることも少なくなってしまったが、SNSで目にする限りでは、同級生の中にはすでに結婚している人がいた。子どもが生まれた、なんて話も珍しくなくなくなるのかもしれない……
「彼女ができた」「結婚する」――そんな報告が日常的に耳に入るような年齢になってしまった自分。いつの間にか、周りはみんな人生の次のステージに進んでいる。そんな現実が、何となく自分の心を不安定にさせる。
「……すごく不安になってきた」
汐はぼんやりと天井を見つめ、胸の中に渦巻くモヤモヤをどうにかしたいと思った。しかし、考えれば考えるほど、不安は増していくばかりだ。
「ダメだ!こんなこと考えてちゃ!」
勢いよく布団の上に体を投げ出して、頭を振る。気持ちを切り替えようとするものの、ふと樹の部屋から聞こえてきた楽しそうな声が気になり始めた。
「樹、彼女とどんな会話してるんだろう……」
気になる。どうしても気になる。
けれど、人の会話を盗み聞きするのはさすがにダメだとわかっている。それでも興味が勝るのが兄としての情けないところだ。
「……聞き耳立ててみようかな……いや、でもなぁ、やっぱりちょっと罪悪感があるし……」
悩みながらも、結局好奇心には逆らえなかった。静かに廊下に出て、樹の部屋の扉の近くに耳を傾ける。
「……って!」
突然聞こえてきた樹の声に、汐は少し驚く。
「違う!そっち行って!ここ降りる!ピン刺しただろ!」
「おい、あーーっ!今どこ!?」
「ちょ、これ見て!!」
――FPSか。
ゲームに熱中する声を聞きながら、なんとなくほっとする。友達と遊んでいるような雰囲気で、樹と彼女の会話もどこか平和な印象を受けた。
「今日そういえばさ……」
ゲームが一区切りついたのか、樹の話題が変わるのが聞こえた。その声に再び興味がそそられる。
「今日あった出来事を話してる……気になるなぁ」
耳を澄ますと、どうやら学校の話題に移ったようだった。
「あの問題わかんなすぎたんだけど、お前わかる?教えて欲しいんだけど……」
――頭脳派だ……
汐は心の中で首をかしげた。樹の彼女も、どうやら勉強ができるタイプらしい。意外としっかりした子なのかもしれない。
「一緒に藍河沢高校行きたいからな、頑張るぞ」
その言葉を聞いた瞬間、汐は思わず微笑んだ。
「ああ、やっぱり藍河沢か……」
自分の母校でもある藍河沢高校。樹がその高校を目指しているのは知っていたが、やはり彼女とも同じ学校を目指しているらしい。
「私のこと、意識してるのかな。ほんと、可愛い奴だなぁ」
汐は扉越しにそう呟くと、そっとその場を離れた。聞き耳を立てるのもここまでにしよう。
だが、リビングに戻る足取りがどこか重い。自分が余計なことを考えすぎているのだとわかっていても、胸の中にぽっかりとした孤独感が広がる。
「……やっぱり、婚活とか……したほうがいいのかな」
一人になった部屋でぽつりと呟きながら、汐は天井を見上げた。弟の恋を微笑ましく思う気持ちと、自分の未来への不安が交錯する、そんな冬の夜だった。
「また君たちですか」
放課後の職員室。茂山汐はコーヒーを片手に、目の前の5人を見てため息をついた。
佐藤優、渡部孝、田中理、斉藤紘、山田環。
最近、彼らは放課後になると何かと理由をつけて職員室に居座るようになった。特に目的があるわけでもなく、ただ「何となく」の空気で集まる。
「先生、今日の課題終わったんで、ちょっと雑談でもしようかなって」
優が悪びれもせず椅子に座る。
「雑談なら家でやったらどうですか?」
「いや、学校の方が落ち着くんですよ」
「落ち着くなら、勉強したら……」
「うっ……」
言葉に詰まる優をよそに、紘がヘッドホンをいじりながら言った。
「まあまあ、俺らって先生のこと好きなんですよ」
「そのわりに授業中は寝るくせに」
汐が呆れ顔で返すと、紘は「いや、あれは……」と言い訳しようとして、理に「お前、言い訳考えてないだろ」と突っ込まれていた。
「で、今日は何の集まりなんですか?」
汐は椅子の背にもたれながら尋ねた。環がニヤリと笑う。
「先生、人生相談とか得意ですか?」
「……私に人生相談?」
「だって、俺らより長く生きてるじゃないですか」
「微妙なラインだな〜」
「まあまあ、先生も俺らの話、興味ありますよね?」
「……仕方ないですね」
汐はため息をつきながらも、コーヒーを一口飲んで「聞くよ」と椅子を回した。
こうして、何となく始まる“放課後の特別授業”が幕を開けた。「先生ってさ、いつから教師になろうって思ったんですか?」
ふいに環が聞いてきた。
「そうだなぁ……大学の頃かな」
「大学? じゃあ、高校のときは別の夢があったんですか?」
「うん、正直教師になるつもりはなかったかな」
汐は遠い目をした。
「私は元々、もっと自由に生きたかったんだよ」
「意外!!」
孝が驚いたように言う。
「先生って、なんか生真面目なイメージだから」
「それは仕事だからそう見えるだけですよ」
汐は苦笑した。
「高校の頃は何も考えずに好きなことやってた。ただ、それが何なのかは、当時は分かってなかったんです」
「へえ……」
優が興味深そうに腕を組んだ。
「でも、教師になった理由って何だったんです?」
汐は少し考え込む。
「誰かのために何かをしたかった、って感じかな」
「誰かのために?」
「うん」
汐は窓の外を眺めながら、静かに言った。
「人間って、自分一人だけのために生きてると、ふと虚しくなるんです」
「……」
誰もが黙る。
「だから、私は教師になりました……でも、それが正解だったのかは今でも分からないです」
「先生、後悔してるんですか?」
「いや」
汐は首を横に振った。
「少なくとも、君たちみたいな生徒と出会えたのは、教師になったからですね」
その言葉に、一瞬の沈黙が流れた後、孝が小さく笑った。
「……なんか、先生っぽいね!」「じゃあ、俺らはどうすればいいんですかね」
理がぼそりと言った。
「俺らも、先生みたいに何か見つけられるんですかね」
「見つけられるさ」
汐は即答した。
「君たちがどう生きるかなんて、今決める必要はない。ただ、考えることは大事です」
「考える、か……」
理は小さく呟きながら、机に突っ伏した。
「……まあ、俺はしばらくダラダラ生きますよ」
「それも一つの選択肢ですね」
「え、先生ってそういうの肯定するんですね」
「否定はしないよ。でも、やるべきことはやって下さい」
「……やっぱり説教じゃん」
環が苦笑する。
「君たちが大人になったら、飲みに行きましょうか」
汐はふと思いついたように言った。
「え?」
「君たちがちゃんと大人になったら、一緒に酒でも飲んで話そう」
「えー、先生酔ったらめんどくさそう」
「う〜ん」
「でも、それって……」
優がポツリと呟いた。
「ちょっと楽しみかもな」
放課後の職員室に、穏やかな時間が流れていた。
「先生、また明日!」
彼らが去った後、汐は一人、静かに微笑んだ。
「……また明日」
そして、彼の“特別授業”は、明日も続いていくのだった。
消された痕跡2020年、イギリス・ロンドン
ロンドンの夜は冷え込んでいた。街灯に照らされた石畳が雨に濡れ、ぼんやりと光を反射している。冬の湿った空気が窓を曇らせ、中畑玲は腕を組んでそれを一瞥した。
深夜2時。
ホテルの一室。明かりはパソコンの画面だけが放っている。時計の針はすでに深夜を回っているが、彼にとってこの時間は日常だった。
玲は静かにコーヒーカップを持ち上げ、冷めた液体を口に運ぶ。苦みだけが舌に残る。
目の前の画面には、消えた論文の痕跡が残っていた。
「世界線分岐の理論」
数日前まで確かに存在していたページ。それが忽然と消えていた。
「……またか」
指先がトラックパッドをなぞる。ページのアーカイブを検索し、キャッシュデータを辿るが、どれも同じだった。削除されたのはこの論文だけではない。
関連する研究者の名前、論文が発表された学会の記録、研究機関のデータベース——
すべてが、一斉に消えていた。
玲はため息をつき、画面を睨んだ。
世界線分岐、並行時間軸、量子干渉……。
似たようなテーマで書かれた論文が、世界中で同じように消されていることに、彼は気づいていた。
最初は偶然かと思った。学者が自身の論文を取り下げることは珍しくない。研究が進んで内容を修正する場合もあるし、権利問題で公開を取り消すこともある。
だが、これは違った。
「研究そのものが、この世から抹消されている」
それに気づいたのは、半年ほど前のことだった。
玲はジャーナリストとして世界を転々とし、様々な情報を追いかけてきた。政治の腐敗、国際紛争、経済犯罪——どの分野にも影の存在がある。しかし、科学の世界は比較的クリーンだと彼は思っていた。
だが、これは違う。
誰かが意図的に、平行世界に関する研究を一部「存在しなかったこと」にしようとしている。
玲はパソコンを閉じ、背もたれに寄りかかった。
「ただの陰謀論じゃないな」
都市伝説や陰謀論なら、わざわざ論文を消す必要はない。根拠のない話なら放置しておけばいい。だが、消されるということは、そこに「何か」があるということだ。
何かが動いている。
それを追う価値がある。
玲は、テーブルの上に無造作に置いていたメモ帳を手に取った。そこには、消えた論文のタイトルがずらりと並んでいた。「量子観測における非対称干渉」
「多世界解釈と相対性理論の矛盾点」
「認識の齟齬と観測者の役割」似たテーマばかりだ。
そして、消された論文の研究者たちの共通点は、ほとんどが行方不明になっているということだった。
偶然ではない。
誰かが、この研究を止めようとしている。
玲は、部屋の片隅に置かれたトランクに視線を向けた。中には、ここ数年で集めた情報が詰まっている。
平行世界の研究は、机上の空論ではない。
すでに何かが起きている。
このまま調べ続ければ、自分も危険に巻き込まれるかもしれない。
それでも、彼はやめるつもりはなかった。
世界の裏側を暴くことが、ジャーナリストの仕事だ。
玲は立ち上がり、窓の外を見た。
ロンドンの街は、深夜になってもどこか冷たく沈んでいる。
彼は、消された情報の先にあるものを探すため、新たな足取りを決めた。韓国の情報屋
2020年、韓国・ソウル
空気の湿り気が肌にまとわりつく夜だった。
ソウルの繁華街から少し外れた裏通り。表向きは目立たないその店の扉を開けると、重い煙草の匂いと酒の香りが入り混じった空間が広がっていた。照明は抑えられ、薄暗い光がテーブルの上をかすかに照らしている。
玲はカウンターの奥にいる男を見つけ、無言のまま歩み寄った。
情報屋——ハン・ジェソク。
韓国の裏社会では名の知れた男だ。政府の汚職、警察の動き、海外の犯罪組織の動向など、金さえ積めば大抵の情報を手に入れられる。彼は常に冷静で、言葉少なに本質だけを語る。
玲が向かいの椅子に腰を下ろすと、ジェソクは煙草をくわえ、ライターの火をゆっくりと近づけた。オレンジ色の火がわずかに彼の顔を照らし、その奥の目が玲を値踏みするように動いた。
「……平行世界について調べてるジャーナリストって、お前のことか?」
玲はグラスの中で氷を揺らしながら、無言でうなずいた。
「何か知ってるのか?」
問いかける声は淡々としていたが、その奥には明らかな探るような意図があった。
ジェソクは煙をゆっくりと吐き出しながら、くつくつと喉を鳴らして笑う。
「知ってるさ」
玲はグラスを口元に運びながら、静かにジェソクを見つめる。
「お前、『エクリプス』って名前を聞いたことがあるか?」
その単語が出た瞬間、玲の指がわずかに止まった。
「それは……?」
「平行世界の研究をしている連中だ。 ただし、政府とは無関係の独立組織らしい」
玲はグラスをテーブルに置き、指先で軽く弾いた。
「非公式な研究機関ってことか……」
「そういうことだ。多分だがな」
ジェソクは椅子にもたれかかり、天井を仰いだ。
「もともとは純粋に研究を進める組織だったらしい。平行世界が本当にあるのか、どうすれば確認できるのか……そういうことを真面目に研究してる科学者たちの集まりだ」
「……だったら、なぜこの話が“裏”で出回ってる?」
玲が尋ねると、ジェソクはグラスを傾けながらニヤリと笑った。
「そこが問題なんだよ」
玲は黙って続きを促す。
「エクリプスの内部に、ちょっとヤバい奴がいるらしい」
「ヤバい奴?」
「研究者の中に、一人だけ……“危険な実験”を進めてる奴がいるって話だ」
ジェソクの言葉に、玲は静かに眉をひそめた。
「……“ある人物”ってわけか」
「そういうことだ」
ジェソクは煙草の灰を落としながら続ける。
「そいつの名前は分からねぇ。ただ、エクリプスの中でも異端扱いされてるらしい。普通、研究ってのは理論を積み重ねていくもんだろ? でも、そいつは違う。実験をしたがってる」
玲は氷の溶けかけたグラスを軽く揺らしながら、静かにジェソクの言葉を飲み込む。
「……つまり、そいつは“理論”を越えて、実際に何かを試してる?」
ジェソクは口の端を吊り上げた。
「どうだろうな。ただ、そいつが関わった研究に参加した奴の中には、行方不明になった奴もいるらしい」
玲の指がわずかに止まる。
「行方不明?」
「そういう話がある」
ジェソクは新しい煙草に火をつけた。
「お前が本気でこの件を追うなら、マカオにいる奴に会え」
玲はジェソクの言葉を反芻しながら、目を細めた。
「マカオ?」
「この辺の情報をまとめてるブローカーがいる。名前はヴィクター・チャン。そいつならもう少し詳しいことを知ってるかもしれない」
玲はジェソクの言葉を頭の中で整理する。
エクリプス——政府とは無関係の平行世界研究機関。
しかし、その内部には異端の研究者がいる。
行方不明になった人間がいる。
実験を進めている。
その研究者が何をしているのか、まだ見えてこない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
この研究は、すでに理論ではなくなっている。
玲はゆっくりと立ち上がり、ポケットから封筒を取り出してテーブルに置いた。
ジェソクはちらりとそれを見て、封筒を取り上げる。
「助かる」
玲がそう言うと、ジェソクは軽く肩をすくめた。
「お前みたいな奴は、どこまで行くのか気になるからな」
玲は軽く笑い、店を後にした。
行き先はマカオ。
次の賭けに出る準備は、すでに整っていた。マカオの賭場
2020年、マカオ
カジノのネオンが、夜の街を赤く照らしていた。どこまでも華やかで、どこまでも胡散臭い。欲望と金が渦巻くこの街では、人間の本性が剥き出しになる。
玲は、煌びやかなカジノのフロアを抜け、奥の廊下へと進んだ。表の喧騒とは対照的に、そこには静寂が広がっている。警備員に軽く頷いて通されると、奥には重厚な扉があった。
VIP専用のポーカールーム。
玲が扉を開けると、すでにテーブルには数人の男たちが座っていた。その中でひときわ鋭い目をした男が、カードを手にしながらこちらを見上げた。
ヴィクター・チャン。
情報ブローカー、裏社会の顔役、そしてこのカジノの常連。
「お前が中畑玲か」
低く響く声。
玲は無言で椅子を引き、席についた。
「俺が勝ったら、お前の知ってる話を聞かせてもらう」
玲がそう言うと、ヴィクターは口元を吊り上げた。
「お前、こういう勝負は慣れてるみたいだな」
「まあね……」
玲はカードを軽く指で弾きながら、静かに相手を見つめる。ヴィクターの視線も、玲のわずかな動きを逃さないように鋭くなった。
ゲームが始まる。
場にカードが並ぶたびに、空気が張り詰める。
チップの音、カードを指で擦る微かな音、男たちの呼吸——すべてが計算され尽くしたような静寂の中、玲は淡々とゲームを進めていった。
ヴィクターはじっと玲を観察していたが、次第に焦りの色を滲ませ始める。
やがて、最後の勝負が決まる。——玲の勝ち。ヴィクターは舌打ちし、カードを放った。
「……いいぜ。お前が知りたいのは、エクリプスの“異端児”のことだろ?」
玲はグラスを傾けながら、静かに頷いた。
「名前は……水谷光」
その名を聞いた瞬間、玲は軽く目を細めた。
「……そいつが、何をした?」
ヴィクターは口元に笑みを浮かべながらも、目だけは笑っていなかった。
「詳しいことまでは分からねぇ。ただな……」
ヴィクターは身を乗り出し、低く囁いた。
「そいつが関わった研究に、戻ってきた人間はいない……と聞いている」
玲の心臓が微かに跳ねる。
「戻ってこない?」
「そうだ。エクリプスの中でも、光に関わった人間は“消えてる”そうだ」
「……どういう意味だ?」
「俺にも分からねぇよ。ただ、水谷光って男には近づかない方がいい」
ヴィクターは溜息をつき、グラスを手に取った。
「お前、変な賭けをしてねぇか?」
玲は軽く笑い、ポケットの中のチップを弾いた。
「俺の人生は、いつも“賭け”みたいなもんだ」
そして、玲は次の賭けに進むことを決めた。フランスの研究者
2020年、フランス・パリ
夕暮れのパリは、どこか重たい空気をまとっていた。観光地としての華やかさとは裏腹に、裏路地にはくすんだレンガの壁と長く伸びる影が静かに横たわっている。
玲は細い路地を抜け、小さな建物の前で立ち止まった。扉には錆びついたプレートがかかっているが、文字はほとんど読めない。
彼は軽く息を吐き、ドアをノックした。
しばらくして、内側から小さな物音がした。足音が近づき、覗き窓がゆっくりと開く。
「……誰だ?」
低く警戒した声が響く。
「中畑玲。ジャーナリストだ」
玲はゆっくりと名刺を差し出した。
扉の向こうで短い沈黙があり、やがて鍵が外される音が響いた。扉がわずかに開き、中から男が顔を覗かせた。
ジャン=リュック・フェルナン博士。
かつて量子物理学の権威として名を馳せたが、数年前に突如として表舞台から姿を消した研究者だった。
男はやせ細り、目の下には深い隈が刻まれていた。怯えたような表情で玲を見つめ、しばらく逡巡してから、ようやく小さく頷いた。
「……入れ」
玲は扉をくぐり、慎重に中へ足を踏み入れた。
部屋は薄暗く、カーテンが閉め切られている。机の上には無造作に散らばる書類と、古びた本。玲は軽く視線を巡らせ、博士の向かいに腰を下ろした。
博士は震える手で煙草を取り出し、火をつけた。
「あなたは……何を知りたい?」
玲は静かに言った。
「水谷光について話を聞きたい」
博士の手がピクリと震えた。
煙草の先がわずかに揺れ、灰が落ちる。
「……なぜ彼の名前を?」
玲はその反応を見逃さなかった。
「彼がエクリプスの中で“異端”だと聞いた」
博士はしばらく口を開かなかった。やがて、静かに視線を落とし、震える息を吐いた。
「彼は……他の研究者とは違う」
「どういう意味だ?」
博士は煙草を灰皿に押しつけ、目を伏せた。
「光は、普通の研究者ではない」
玲は眉をひそめた。
「……?」
博士はかすかに喉を鳴らし、言葉を絞り出すように続けた。
「彼は、“すでに答えを知っている者”だ」
玲の指が、ポケットの中のコインを無意識に弾いた。
「どういうことだ?」
博士は玲を見つめた。その目には、明らかに恐怖が浮かんでいる。
「……それを知っても、君は引き返せるのか?」
玲は軽く笑った。
「俺はジャーナリストだ。引き返すつもりなら、ここには来てない」
博士はもう一度、深く息を吐いた。
「……それなら、お前の賭けはもう始まっている」新たな賭け
2021年、ベルリン
玲は夜の街を歩いていた。
ベルリンの空は灰色に曇り、冷たい空気が肌を刺した。街のネオンがぼんやりと灯る中、玲は静かにポケットの中のコインを弾いた。
水谷光——エクリプスの中で異端の研究を続ける男。
彼は、何かを知っている。
それは、ただの研究者が持ちうる知識の範疇を超えたものだ。
博士は言った。「すでに答えを知っている者」その意味を考えれば考えるほど、玲の直感はある一つの仮説へと行き着いた。
——水谷光は、過去に何かを見ている。
ただの学者ではない。理論を組み立てているだけではない。
彼は、確信を持って行動している。
——だが、それが何なのかはまだ分からない。
玲はポケットの中のコインを弾いた。「……これは、面白くなってきたな。」彼はさらに調査を進めることを決意する。
まだ全てのピースは揃っていない。
しかし、確実に“何か”がある。
玲は静かに笑った。——次の賭けに出る準備は、できていた。
ある夜、小野寺涼は静かにコーヒーを飲んでいた。
普段と変わらない夜のはずだった。
だが、突然、部屋の明かりがふっと消えた。
「……停電か?」
静かなアパートの一室。
窓の外を見ると、街全体が闇に包まれている。
涼は冷静に立ち上がり、部屋の懐中電灯を手に取る。
「珍しいな……」
滅多に停電など起こらない地域だった。
何か事故でもあったのだろうか。
しかし、涼は騒ぎ立てることなく、そのままコーヒーを飲み続けた。
「まぁ、電気がなくてもやることは変わらないか」
彼は懐中電灯を机に置き、ノートを広げる。
そこには、日頃から書き溜めていた考察やスケッチが並んでいた。
「この機会に、まとめておくか……」
停電のせいで電子機器は使えない。
しかし、彼にとってはむしろ好都合だった。
この時間を使って、しばらく放置していた研究を整理できる。
静かな部屋に、紙をめくる音だけが響く。——コン、コン。
静寂を破るように、ドアをノックする音がした。
「……?」
涼は顔を上げる。
こんな時間に訪ねてくる人間など、限られている。
研究の関係者か? それとも、他の誰かか?
慎重に立ち上がり、ドアの覗き穴を覗く。
そこには——知らない男が立っていた。
黒いフードを深く被り、顔はよく見えない。
しかし、こちらをじっと見ているのは分かった。
「……?」
涼は無言のまま、扉を開けるか迷った。
普通なら、こんな状況で扉を開けるべきではない。
しかし、涼は一瞬の違和感を覚えた。
「……」
何かが、おかしい。
直感的にそう感じた。
男は、ただ立っているだけなのに——妙に気になる。
「観察者としての好奇心」が、涼の判断を鈍らせた。
静かに、扉を開ける。「……何か用か?」
低い声で問いかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
「……小野寺涼、だな?」
「そうだが」
「噂は聞いている」
男はフードを少しずらし、薄暗い廊下の明かりの下で涼を見つめた。
「……俺は、情報を売る仕事をしている」
「……ふむ」
涼は表情を変えずに、相手を観察した。
この男は誰なのか?
何を目的にここへ来たのか?
涼は多くの情報を持っているが、「裏社会の人間」と直接関わることは少ない。
「情報屋、か」
男はゆっくりと頷いた。
「お前にとって、興味のある話がある」
「……俺に?」
「そうだ」
男はポケットから小さな封筒を取り出し、涼の前に差し出す。
「受け取れ」
「……」
涼は封筒を手に取り、指先で重みを確かめる。
何かの資料か? それとも、単なるメモか?
彼は無言のまま封を切った。
中には、一枚の紙が入っていた。
そこには——
「“alga”のことを知りたくはないか?」
そう、手書きの文字で記されていた。
涼は紙を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……お前は、誰だ?」
「ただの情報屋だよ」
男は不敵に笑う。
「今は、“停電”の話だけしておこうか」
「……?」
「気づいてないのか?」
男は、外を指差した。
「この停電は、“自然なものじゃない”」
涼は窓の外を見る。
確かに、街全体が停電している。
しかし——
よく見ると、一部のエリアだけが異常に暗い。
「これは、“何か”を隠すための停電だ」
「……」
涼は再び紙に視線を落とす。
「“alga”に関係があるのか?」
「さてね」
男は肩をすくめ、背を向けた。
「まぁ、気が向いたら——また来るよ」
そう言って、暗闇の中へと消えていった。
涼はしばらく沈黙し、再び紙を見つめた。
「……面白い」
この”停電”は、何かの前兆なのか。
それとも、ただの偶然なのか。
涼はコーヒーを一口飲み、静かに思考を巡らせた。
——だが、それを知るのは、また別の話。
白い実験室の中で、水谷光はじっと小さな箱を見つめていた。
無機質な金属製の箱。
中には、何かが入っている。
——「箱の中のネズミは、果たして何を考えるか?」
指先で軽く箱を叩く。
コンッ、と乾いた音が響く。
「……ねぇ、君は今、何を考えているの?」
光は静かに微笑んだ。
これは単なる実験。
しかし、それが”単なる”ものかどうかは、結局のところ観察者の捉え方次第だった。
彼にとって、“知る”ことこそがすべてだった。
——好奇心という名の衝動。光はそっと箱の蓋を開けた。
中にいたのは、丸まったままじっと動かない実験体。
実際にはネズミではなく、ほんの少しの”認識”が歪めば、それが人間に見えることもある。
「ねぇ、どうして黙っているの?」
光は優しく問いかける。
しかし、“彼”は何も言わない。
「……あぁ、そうか」
光はくすっと笑った。
「君は今、“ここがどこなのか”を理解しようとしてるんだね?」沈黙。光は箱の端を指でなぞる。
「認識って、面白いよね」
「ここがどこなのか。今がいつなのか。君は誰なのか——」
箱の中の”彼”が、ゆっくりと顔を上げる。
「その全部が、少しだけ変わるだけで、人間って案外簡単に壊れるんだよね?」
光は相手の瞳をじっと覗き込む。
「……でも、大丈夫」
「君のことは、ちゃんと観察してるから」光にとって、実験体は単なるモルモットではない。
「うん、すごくいいデータが取れたよ」
ノートにさらさらと記録をつけながら、光は満足げに微笑んだ。
「君たちは”実に興味深い”」
“モルモット”は、光にとって単なるデータではない。
彼らは、彼の好奇心そのものだった。
光は”知ること”を愛している。
実験体たちを愛している。
なぜなら——
「……こんなに珍しい病気にかかるなんて、本当に素敵だよね?」
光は瞳を輝かせながら、ノートを閉じた。
彼にとっての愛とは、知ること。
知り尽くし、すべてを理解すること。
その先にある結論が、どんなものであろうと。
——光の観察は、終わることはない。
時は(めちゃくちゃ)遡り——「おい、環!今日も戦うぞ!」
「えー、またぁ?昨日もやったじゃん!」
紘と環がまだ幼稚園児だったころ、彼らの日常は”戦い”に満ちていた。
砂場は戦場。ブロックは砦。園庭のジャングルジムは要塞。
そして、“ルール”など存在しない。
「俺が王様だ!環、お前は騎士な!」
「えぇー、なんで俺が騎士?王様が戦えよ!」
「バカ言え、王様は指揮するんだぞ!」
「意味わかんねぇ!」
環が文句を言っている間に、紘は勝手に玉座(すべり台の一番上)に座り、ドヤ顔を決めていた。
「ふははは!下僕ども、戦えーっ!」
「だからなんでお前が王様なんだよ!!」
砂場でお城を作っていた年長の子どもたちが、騒ぎを聞いてそっと距離を取る。
「環!突撃しろ!」
「だからなんで俺だけ……ちくしょー!!」
仕方なく環は特攻した。
結果、すべり台から転げ落ち、地面に叩きつけられた。
「おぉっ、環、お前強ぇな!」
「……っざけんな、紘!痛いじゃねぇか!」
環が怒って砂を投げる。紘も応戦する。
気づけば砂場で大乱闘が始まっていた。
「お前ら、また喧嘩してるのか」
先生に引き剥がされ、二人は並んで正座させられた。
「違うっ!!戦ってて!!」
「そうそう、これは戦争!」
先生はため息をつきながら、彼らの頭を軽くペチンと叩いた。
「まったく……仲がいいんだか悪いんだか」数年後——「……なあ環」
「なんだよ」
「俺ら、昔ガチでクソガキだったよな」
「今もだろ」特に反省の色はない。
「んん……またショートだ」
作業台の上で、小さな電子機器が火花を散らす。
渡部孝——30歳になった彼は、未だに機械と向き合い続けていた。
研究所の片隅、散らかった机の上には部品が山積みになっている。
孝はそれを気にも留めず、手元の基盤を慎重に調整した。
「……お前、昔から雑なのに、細かい作業は得意だったよな」
ふいに後ろから声がする。
振り返ると、そこには山田環がいた。
「?仕事終わったの?」
「とっくにな。お前こそ、まだやってんのかよ」
孝は苦笑しながら、机の上のコーヒーを一口飲む。
「僕の仕事は終わりがないの!」
環は呆れたように椅子を引き、孝の向かいに座った。
「で、今度は何作ってんだ?」
「……機械義手」
孝の指が、精巧な義手の関節をなぞる。
「昔の知り合いが……事故で片腕を失くしてさ。だから、できる限り”本物”に近い動きをする義手を作ってる」
環は真剣な表情で、孝の手元を見つめた。
「へぇ……相変わらず、すげぇことしてんな」
孝は肩をすくめる。
「まぁね。でも、昔みたいに”とんでもない技術”はもう使えないよ」
かつて、孝は平行世界の技術を知り、その一部を利用してきた。
だが今は、甘えるのをやめて、“普通の技術者”として生きている。
「……今の僕は、ただのエンジニアだよ」
「それでいいんだろ?」
環が、ぼそっと言った。
孝は少し黙って、それから小さく笑う。
「……まぁね!」
かつては”異常”の中にいた彼が、今は”普通”の世界で技術を生かしている。
だが、それでいい。
孝は静かに義手を持ち上げ、関節の動きを確認する。
「よし……これで、ちゃんと”握れる”!」
満足そうに微笑みながら、彼はまた新たな作業に取りかかった。
「……うわ、めんどくせぇ」
控室の鏡の前で、田中理は髪をセットされながら小さくぼやいた。
「はいはい、動かないでくださいねー田中さん」
ヘアメイクのスタッフが苦笑しながらスプレーを吹きかける。
——ステージの向こうでは、派手なライトと歓声が響いていた。
理は、研究者としてのキャリアを持ちながら、なぜかモデル業にも足を突っ込んでいた。きっかけは単純だった。
「お前、顔めちゃくちゃいいんだから、モデルやってみろよ」
誰かのそんな適当な一言。
「いや、俺が?ねぇよ」
と最初は否定したが、ふとした好奇心でオーディションに出たら——なぜか即合格。
以来、気が向いたときだけステージに立つようになった。
「田中さん、そろそろ出番です」
スタッフの声に、理はため息をつく。
「……ったく、何やってんだかな」
ジャケットの襟を直し、ゆっくりとステージへ向かう。彼が立つのは、研究室の白い蛍光灯の下だけではない。
——眩いライトに照らされるランウェイの上でもある。
観客の視線が集まる。
どこか気だるげな、それでいて整いすぎた美貌。
長身のシルエット。無造作に流された髪。
歩くたびに、周囲の空気が変わるのが分かる。
モデルという仕事は、ただ歩くだけのように見えて、実際はそうじゃない。
表情、歩幅、視線の流し方、すべてが計算されている。
最初のころは適当にこなしていたが、今では無意識に”魅せる”歩き方をしている。
「……ま、たまにはこういうのも悪くないか」
理はポケットに手を突っ込み、ゆっくりと歩き出す。
カメラのフラッシュが瞬く。
シャッター音が、まるで拍手のように響く。
「おー、やっぱり田中さん、最高っすねぇ」
控室に戻ると、スタッフが興奮気味に言った。
「……そっすか」
適当に返事をしながら、水を一口飲む。
“モデル業”にそこまで情熱があるわけじゃない。
本業はあくまで研究者——それだけは変わらない。
今も、平行世界のデータ解析や認識操作の研究に携わっている。
「……お前、結局どっちが本職なんだよ」
ある日、撮影帰りに佐藤優がそう聞いてきた。
「さぁな」
理は肩をすくめた。
研究者として生きることに、未だ迷いはない。
だが、こうして”別の世界”に片足を突っ込んでいるのも事実だった。
「お前さ、結局”目立つ”のが好きなんじゃねぇの?」
優がニヤつきながら言う。
理は少し考え、それから小さく笑った。
「……昔の俺なら、そう言われてキレてたかもな」
——だが今は、そうかもしれないと思う。
研究者として生きる。モデルとして魅せる。
どちらも違うようで、どこか似ている。
結局、どちらも”何かを伝える”仕事だから。
「まぁ、いいんじゃねぇの?」
優はそう言いながら、お酒を一口飲む。
「お前が何やってても、俺らはお前のこと、ちゃんと”田中理”として見るしな」
理は驚いたように優を見たが、すぐに鼻で笑った。
「……なに、それ」
「たまには俺も、いいこと言うだろ?」
夜の街を歩きながら、二人は適当にくだらない話をした。——理の未来は、まだ”決まっていない”。だが、それでいい。
研究も、モデルも。
どちらかひとつに決める必要なんて、どこにもないのだから。
「……また、夢を見た」
天井をぼんやりと見つめながら、光は呟いた。
狭い病室。無機質な白い壁。光はベッドに横たわり、何も考えずにただ時間を過ごしていた。
“病気”などと、人は言う。
だが、光自身はそれが何なのか分からない。ただ、何もかもが”どうでもいい”と感じるだけだった。
それなのに、夢を見る。
紅い花が咲いている。
風に揺れ、光の足元を覆うように広がっている。
クロッカス。——なぜ、この花なのか。なぜ、この色なのか。そこには誰もいない。ただ、揺れる花だけがある。
“好奇心”というものが、どこかに消えてしまった今、それすらどうでもよかった。
だが、夢の中でだけは、なぜかこの風景を”見つめてしまう”。
「光」
目を覚ますと、そこにいたのは田付澪だった。
「……君か」
光は横になったまま、視線だけを彼女に向ける。
「“紅い花”が夢に出るんだって?」
「……聞いたのか」
「当然。貴方の病状を”観察”するのも、私の役割」
澪は静かに光を見下ろす。“敵”。そう形容するのが適切かは分からないが、彼女は”味方”ではない。
それは、光自身がよく分かっていた。
「紅い花……クロッカスが?」
「……ああ……おかしな話だ」
光は無表情のまま答える。
「この町に咲いていた花だよ。見たことがあるたろ?」
「……どうでしょう」
光は曖昧に笑う。
「今となっては、それもどうでもいい話だろ?」
澪は光をじっと見つめた。
「そうかもね」
それだけを言い残し、澪は病室を後にした。
光は再び目を閉じる。クロッカス。なぜ、あの花だけは頭に残るのか。
好奇心も失せ、すべてがどうでもよくなったはずなのに。
ただ、風に揺れる紅だけが、光の中で消えずに残っていた。
「偽りの藍河沢に残る選択」もし、あのとき——
辻一が撃たれず、優たちが脱出せずに「偽りの藍河沢」に残っていたら。これはそんな”if”の物語。「……行かないのか?」
曇天の下、佐藤優はただそこに立っていた。
町の外に続くはずだった結界の穴は、静かに閉じつつある。
「……なんかさ」
優は力なく笑った。
「ここを出たら、何があるか分からないじゃん」
背後には、環、孝、理、紘。そして教師の汐。
彼らもまた、“選択”を迫られていた。
「……優、マジで言ってんのか?」
山田環が険しい顔で問いかける。
「さあな」
優は曖昧に笑う。
「でもさ、“ここ”は俺たちが生きてきた場所なんだろ?」
——“偽り”の藍河沢。
それが、平行世界《alga》の一部だと知ってもなお。
「今さら逃げたところで、何か変わるのか?」
彼の言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
モニターが点灯する。
機械的なノイズ音とともに、画面の向こうに”誰か”の姿が映った。
「……ふぅん。なるほどね」
足を組み、どこか気だるげな表情の青年が、画面の中でこちらを見ている。
「まさか、“残る”選択をするとは思わなかったよ」
優たちは顔を見合わせる。
「誰だ、こいつ」
紘が低く呟く。
「俺か?……水谷光、だよ」
モニター越しに、青年——光が微笑む。
「まぁ、私のことはどうでもいいよ。それより、君たち……どうするの?」
「……どうするって?」
孝が怪訝そうに尋ねる。
「“ここ”は、君たちが思ってるより”管理された世界”だよ。逃げるチャンスを放棄したってことは……」
光は楽しそうに笑う。
「これからも、“監視対象”として生きるってことだ」“監視対象”その言葉に、優はわずかに眉をひそめた。
「……まぁ、なんとなく分かってたけどな、詳しい理由は知らないけど」
環が忌々しげに息を吐く。
「今さら”監視”なんて驚かねぇけど……お前はなんなんだよ」
「私?」
光は肩をすくめる。
「ただの”観察者”……ってとこかな」
彼は、どこか退屈そうに指を組んだ。
「君たちは、この町で生きるんでしょ?だったら、その選択がどうなるのか……ちょっと、気になるな」
光の声は、どこまでも軽い。
それが余計に苛立たしかった。
「……お前が”この町”を作ったのか?」
理が睨みつけるように聞く。
「そんなわけないじゃん。私はただ”見てる”だけ」
光はニコリと笑った。
「でもね……“ここ”に残った以上、君たちはずっと私の”観察対象”ってわけだ」
彼の目はどこか冷たい。
「さて、“この選択”の先には何が待ってるかな?」
《偽りの藍河沢》に残る選択をした優たちは、“監視される日々”を再び送ることになった。
——それでも、彼らは出て行かなかった。
光はモニター越しに、そんな彼らを眺めながら、ただ微笑んでいた。
「ふふ……これは、長く楽しめそうだ」
そう呟く彼の言葉が、町のスピーカーから流れた。
誰も、それに返事をしなかった。
——ただ、“逃げなかった”という事実だけが、そこにあった。BAD END
もし、最後の認識操作が行われなかったら——
もし、水谷光が失踪し、優たちが”紅顕病”のまま放置されたら——これは、そんな”if”の物語。「……また、熱が上がってる」
孝の声がかすれていた。
彼の手には体温計。優の額に当てると、40度近い数値を示している。
「……だる」
優は布団の中で呻いた。
視界がぼやける。喉が焼けるように痛い。
全身が熱で火照っているのに、寒気が止まらない。——紅顕病自分たちだけがかかる、原因も治療法も分からない病。
研究を進めていたはずなのに、なぜか何も解決していない。
「……エクリプスは?」
「音沙汰なしだ」
環が短く答える。
「光のヤツ、どこ行きやがった……?」
数日前、光は”いなくなった”。
突然、姿を消した。
彼がいなくなってから、エクリプスの研究施設も封鎖され、情報も一切途絶えた。
「俺たちは……このままか?」
優は呆然と天井を見つめる。
思考がまとまらない。
熱のせいで意識が朦朧とする。
鼓動が耳の奥で響く。“全員死ぬ”誰かの言葉が頭の中で反響した。
「——優、起きろ!」
環の声が聞こえた。
「……あ?」
体を揺さぶられる感覚。
「紘が……! 紘がヤバい!」
優は必死に身体を起こした。
視界の端で、孝が動揺しているのが見えた。
「おい……紘?」
部屋の隅で、斉藤紘がぐったりと倒れていた。
「紘、お前……!」
紘の顔は異様なほど赤い。
体温は異常なまでに高いのに、震えている。
「……やべぇな」
孝が震える声で呟いた。
「これ……マジで死ぬんじゃ」
誰も言葉を返せなかった。
紘の息が浅くなる。
呼吸が不規則になっていく。
「……こんな、はずじゃ」
優は拳を握りしめる。
光がいたときは、少なくとも”実験対象”として監視されていた。
だが、今は——
「……これが、本当の”放置”かよ」
優はぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
誰も助けに来ない。
誰も、何もしてくれない。
“実験台”の価値すら失ったら——
ただ、死んでいくだけの存在だったのか?
それから、何日が経ったのか分からない。
環が倒れた。
理も、もう喋らなくなった。
孝は「まだ大丈夫」と言いながら、動くたびに吐いた。
そして——優は、気づく。
「……ああ」
紘が動かない。
環も、返事をしない。
孝は、何かを言いかけたまま、静かになった。
「……冗談だろ」
震える手で、彼らの肩を揺らす。
「……おい、嘘だろ……」
返事はなかった。“全員死ぬ”その言葉が、今度こそ現実になったことを悟る。
静かになった部屋の中、優は一人、天井を見上げた。
頭がぼんやりする。
「……光、お前……」
あの男は、なぜ消えた?
自分たちを観察することすら放棄して、どこへ行った?
実は、俺たちのヒーローだった?
「……どうせなら、最後まで見届けろよ」
声は、誰にも届かない。
そのまま、意識は深い闇に沈んでいった。BAD END
もし、カイが”裏切り者”として監視されることがなく、生き延びていたら——これは、そんな”if”の物語。2022年12月26日「……さて、そろそろ本当に“まずい”みたいですね」
モニター越しに映る男——カイ(伽)が、ぼんやりとした声で言った。
「やばいって、どういう意味だよ」
優が警戒するように尋ねる。
「うーん……まぁ、君たちにとっては、いいニュースかもしれません」
カイは苦笑した。
「このまま黙っていたら、本当に”閉じ込められる”ところでしたが……僕がうまく立ち回れたおかげで、少しだけ状況が変わりました」
「……え?」
環が眉をひそめる。
「“光”に、余計な疑いを持たれずに済んだんですよ。つまり、僕が“おかしな動き”をしていることを誰にも気づかれなかったってことです」
カイは、モニターの向こうで気だるそうに手を振った。
「だから、この世界はまだ“閉じられない”。僕がこうやって話せているのも、そのおかげです」
「……で、結局何が言いたいんですか」
理がイラついたように問い詰める。
「簡単な話ですよ」
カイはモニターの向こうで微笑んだ。
「君たちは、今なら”外”に出られる」「……これが、出口?」
優たちの目の前に広がるのは、今まで見たことのない”歪み”だった。
「ええ、そうですね」
カイがモニター越しに頷く。
「結界を少しだけ”操作”しました。君たちが”向こう”へ行くには十分でしょう」
「……でも、なんでそんなこと……」
孝が戸惑ったように言う。
「そんなの、“僕が結界師だから”……で十分でしょう」
カイは肩をすくめた。
「それより、早くしないとダメですよ。いくら僕が気づかれないように動いていたとはいえ、“彼ら”がいつ気づくか分からないんですから」
「……カイさんは?」
理が問いかける。
「僕?」
カイはわずかに目を細めた。
「僕は、もう少しここでやることがあります」
「え?」
環が鋭く聞き返す。
「すぐに”violet”に行くと怪しまれるでしょう? だから、少し時間を置きます」
カイは気だるそうに言った。
「でも、“いつか”行きますよ。君たちを放っておくほど、僕も無責任じゃない」
優たちは一瞬だけ顔を見合わせた。
そして——
「……分かりました」
優が静かに言った。
「なら、待ってます」
「ええ、すぐ行きますよ」
カイは微笑んだ。2023年 春
「おや、皆さん、お久しぶりですね」
街角に立つ一人の男——カイが、微笑んでいた。
「……本当に来た!」
孝が驚いたように言う。
「ええ、もちろん。約束しましたからね」
カイは手をポケットに突っ込み、軽く息を吐いた。
「ま、それに……僕も、“終わり”が見たくなったので」
「終わり?」
優が聞き返す。
「君たちがどうするのか、どう終わらせるのか……それを見届けたいんですよ」
カイの声は、どこか楽しそうだった。
「……カイさん、変わらないですね」
環がため息をつく。
「当たり前でしょう? 僕は僕です」
カイは笑った。“もしも”の未来では、彼はまだここにいた。そして——“観察者”としてではなく、“共に歩む者”としてそこにいた。生存 - 監視回避END
紘は、かつてのことを何も覚えていない。
それが”普通”なのだ。
“監視”も”紅顕病”も、“あの世界”も、すべて”なかったこと”になった。
光の認識操作によって——2030年 春
「おい、そろそろ出番だぞ」
楽屋の扉をノックする音が響く。
「……分かってるよ」
紘はソファに座ったまま、ヘッドホンを外した。
楽屋には、散らかった譜面と、使い込まれたギター。
控え室の小さな鏡に映るのは、かつての”暴力的なガキ”ではなく、ステージに立つ”表現者”の顔だった。
「斉藤紘」——いまや彼の名前は、多くの人々に知られるものになっていた。
「いくぞ」
スタッフの合図とともに、紘は静かに立ち上がる。
ステージの向こうから聞こえる観客のざわめき——そこには、熱気と期待が混ざっていた。
「……ま、俺は俺のやることをやるだけだ」
深呼吸。
ステージのライトが、一気に紘を照らした。
音楽は、“いつの間にか”紘の人生の中心になっていた。
きっかけは、よく覚えていない。
昔からギターを弾いていた気もするし、誰かに影響を受けた気もする。
けれど、はっきりとした”始まり”は思い出せない。
——まるで、“過去の一部”が抜け落ちているように。
だが、そんなことはどうでもよかった。
“今”がすべてなのだから。
ステージの上、紘はマイクを握る。
そして——静かに、歌い始めた。
その歌声は、かつての”暴力”を超え、誰かの心を揺さぶるものへと変わっていた。“俺はここにいる”“俺は歌う”“この声が、どこまでも届くように”曲が終わると、観客の歓声が会場を揺らした。
スポットライトの中、紘は少しだけ笑った。
彼は、もう”過去の自分”ではない。
……いや、“過去”なんて、最初からなかったのかもしれない。それでも、紘は前に進む。歌がある限り——彼はここにいる。
「渡部孝が最初から存在しなかった世界」2018年(2021年) - 偽りの藍河沢
「おい優、早くしろよー!」
環が手を振る。
「今日はカラオケ行くって言ってただろ」
「あー……はいはい」
優は適当に返事をしながら、カバンを肩にかけた。
「理も行くか?」
「……うるせぇ、俺はパス」
「なんだよノリ悪いな」
環が笑う。
——何の変哲もない日常だった。2019年(2022年) - 偽りの藍河沢
バス事故が起きた。
誠が死んだ。
けれど、それだけだった。
「……俺たち、卒業したらどうする?」
環がぽつりと呟いた。
「さあな」
優は、何も考えずに空を見上げた。
「まあ……就職するしかないんじゃね?」
「だよなー」
そんな適当な会話を交わしながら、“普通に”時間が流れていく。2020年(2023年) - 偽りの藍河沢
「おい環、バイト決まったのか?」
「んー? まぁな」
「お前がバイトしてる姿、全然想像つかねぇわ」
「失礼なやつだな」
「はは、まあ、俺もそろそろ決めないとな」
「就職どうするんだ?」
「考えてねぇ」
そんな会話をしながら、“普通に”生活していた。2021年(2024年) - 偽りの藍河沢
「……卒業か」
理がぽつりと呟く。
「俺たち、このあとどうするんだ?」
「まあ、働くしかねぇだろ」
「そうだな」
——それだけだった。何も考えず、
何も疑問に思わず、
何も変えようともせず——ただ、“普通に生きる”だけだった。
渡部孝が最初から存在しなかった世界。
それは——“何の疑問も生まれず、ただ歳を重ねる世界”。結界なんてものは意識すらしない。
ここが偽物の町だなんて、誰も考えない。
「日常」が”そのまま続くだけ”。
何も知らないまま、
何も気づかないまま、
何も変わらないまま——ただ、生きて、働き、歳をとる。それを、何者かが、死ぬまで見つめている。