1.茂山汐と茂山樹

二〇一五年、冬。
「ただいま~」
茂山汐は久しぶりに実家へ帰省していた。普段は栃木県で仕事をしているが、年末の休暇を利用して神奈川県の家へ戻ってきたのだ。
玄関で靴を脱ぎ、少し冷えた手を擦りながらリビングへ足を運ぶ。そこには母親がいて、何やら家事の合間にテレビを見ていた。
「樹は?」
汐はリビングに弟の姿が見当たらないことに気づき、ふと母親に問いかける。
「樹なら自分の部屋で友達とゲームしてるわよ」
そう返された瞬間、汐は「なんだ、楽しそうじゃないか」と興味を引かれ、すぐに弟の部屋へ向かうことにした。
ちなみに、汐と弟の樹は子どもの頃から部屋を共有しており、汐が樹の部屋に行くことはごく自然な光景だった。
「樹~」
軽くノックして扉を開けた汐だったが、そこにいたのは樹一人だけ。友達の姿はどこにもない。
「友達とゲームしてるって聞いたけど?」
首をかしげてそう言うと、樹は「あ、ちょっと待って」と言いながらヘッドセットを触り、「ミュートするわ」とぽつりと呟いた。
「通話でやってるだけだよ。おかえり、兄貴」
ヘッドセットを外して一息ついた樹がようやく汐に挨拶を返した。
「ただいま。ここにいてもいいよね?」
汐は弟の反応を見て軽く尋ねたが、なぜか樹は少し気まずそうな顔をして黙り込む。
「ん~……」
普通なら「いいよ」と即答するはずなのに、この妙な間。汐は訝しげに樹を見つめる。
「なに……?」
樹が何か隠していると察した汐が問い詰めるように言うと、樹はしぶしぶ観念した様子で口を開いた。
「……お父さんとお母さんに内緒にしてくれる?」
「ん?急に?いいけど……何、それ」
汐は突然の真剣な問いに少し戸惑いつつも頷く。すると樹はそっと手招きして汐を呼び寄せ、声を潜めた。
「俺……彼女いんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、汐は一瞬固まった。
「えっ……!」
あまりに意外な告白に、思わず間抜けな声を漏らしてしまう。樹はその反応に小さく笑ったが、耳が赤く染まっているのがはっきりと見えた。
「マジで言わないでよ。彼女との約束だし、今俺高二だろ。受験前でこんなことバレたら、絶対怒られるんだからさ」
樹はそう言いながら、ちらりと汐を見上げた。その姿はどこか頼りなくもあり、弟が少しずつ成長しているのを感じさせる。
「わかったよ、秘密は守るって。でも勉強も彼女も、どっちもちゃんと頑張れよ」
汐は軽い口調でそう言うと、部屋を出る準備をする。
扉を閉める前にもう一度振り返ると、樹はヘッドセットをかけ直し、少し照れたような顔でゲームに戻っていった。
廊下を歩きながら汐はひとり笑みを浮かべる。普段そっけない態度の弟が、こんな風に大事な秘密を打ち明けてくれたことが、何とも微笑ましかった。
「でも……私はどこにいればいいんだ?」
部屋を追い出された汐は仕方なくリビングへ戻り、ソファに腰を下ろすとテレビのリモコンを手に取った。
「あ〜……樹に彼女ができちゃったか……」
リビングに戻った茂山汐は、ぽつりと独り言を漏らした。弟の成長を嬉しく思う気持ちと、どこか焦燥感にも似た感情が胸を締め付ける。
「まあ、私も一度彼女がいたことはあるけど……結局別れちゃったしなぁ」
過去の記憶が蘇る。少し懐かしいような、それでいてほろ苦い感情が込み上げる。ふと、頭をよぎるのは自分の同級生たちのことだ。
「あの頃の仲間たち、みんな今頃どうしてるんだろう?」
社会人になった今では連絡を取ることも少なくなってしまったが、SNSで目にする限りでは、同級生の中にはすでに結婚している人がいた。子どもが生まれた、なんて話も珍しくなくなくなるのかもしれない……
「彼女ができた」「結婚する」――そんな報告が日常的に耳に入るような年齢になってしまった自分。いつの間にか、周りはみんな人生の次のステージに進んでいる。そんな現実が、何となく自分の心を不安定にさせる。
「……すごく不安になってきた」
汐はぼんやりと天井を見つめ、胸の中に渦巻くモヤモヤをどうにかしたいと思った。しかし、考えれば考えるほど、不安は増していくばかりだ。
「ダメだ!こんなこと考えてちゃ!」
勢いよく布団の上に体を投げ出して、頭を振る。気持ちを切り替えようとするものの、ふと樹の部屋から聞こえてきた楽しそうな声が気になり始めた。
「樹、彼女とどんな会話してるんだろう……」
気になる。どうしても気になる。
けれど、人の会話を盗み聞きするのはさすがにダメだとわかっている。それでも興味が勝るのが兄としての情けないところだ。
「……聞き耳立ててみようかな……いや、でもなぁ、やっぱりちょっと罪悪感があるし……」
悩みながらも、結局好奇心には逆らえなかった。静かに廊下に出て、樹の部屋の扉の近くに耳を傾ける。
「……って!」
突然聞こえてきた樹の声に、汐は少し驚く。
「違う!そっち行って!ここ降りる!ピン刺しただろ!」
「おい、あーーっ!今どこ!?」
「ちょ、これ見て!!」
――FPSか。
ゲームに熱中する声を聞きながら、なんとなくほっとする。友達と遊んでいるような雰囲気で、樹と彼女の会話もどこか平和な印象を受けた。
「今日そういえばさ……」
ゲームが一区切りついたのか、樹の話題が変わるのが聞こえた。その声に再び興味がそそられる。
「今日あった出来事を話してる……気になるなぁ」
耳を澄ますと、どうやら学校の話題に移ったようだった。
「あの問題わかんなすぎたんだけど、お前わかる?教えて欲しいんだけど……」
――頭脳派だ……
汐は心の中で首をかしげた。樹の彼女も、どうやら勉強ができるタイプらしい。意外としっかりした子なのかもしれない。
「一緒に藍河沢高校行きたいからな、頑張るぞ」
その言葉を聞いた瞬間、汐は思わず微笑んだ。
「ああ、やっぱり藍河沢か……」
自分の母校でもある藍河沢高校。樹がその高校を目指しているのは知っていたが、やはり彼女とも同じ学校を目指しているらしい。
「私のこと、意識してるのかな。ほんと、可愛い奴だなぁ」
汐は扉越しにそう呟くと、そっとその場を離れた。聞き耳を立てるのもここまでにしよう。
だが、リビングに戻る足取りがどこか重い。自分が余計なことを考えすぎているのだとわかっていても、胸の中にぽっかりとした孤独感が広がる。
「……やっぱり、婚活とか……したほうがいいのかな」
一人になった部屋でぽつりと呟きながら、汐は天井を見上げた。弟の恋を微笑ましく思う気持ちと、自分の未来への不安が交錯する、そんな冬の夜だった。